大阪市立大学の歴史
32/220

18Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 明治のはじめ以降、本学の源流が生まれた明治10年代までの間に、全国には多くの塾や私立学校・官立高等教育学校が設立されていた。それぞれが異なる伝統・理念・特色を持っており、各学校の間に「序列」はほとんどなかった。学生も、自分の必要に応じて学校を「渡り歩く」ことが可能であった。私立・官立を問わず、学校が大変「元気」な時代であったとされる。日本ではじめて名称に「大学」を冠した学校であり、その後、高等教育の最高峰に位置づけられるようになる「東京大学」も、当時は、数ある学校のなかの一つに過ぎなかった。 明治期の日本で、学ぶことが必要とされたのは、西洋の「学芸」であった。「学芸」とは、「学問と技術を総称する言葉」であり、なかでも「技術学とそれを支える知識」「外国語能力」が強く求められていた。とくに重視された技術は「工業技術」「医術」「農業技術」であり、少し後になってから「法技術」も必要とされるようになった。 このようなフラットな関係にあった学校群に、序列化という大きな変化をもたらしたのは、1886(明治19)年に制定された「帝国大学令」であった。伊藤博文内閣が発足し、そこで初代文部大臣を務めたのは、かつて東京商法講習所を作った開明派思想家の外交官森有礼だった。文部大臣就任直前の森は、上述の通り、府立大阪商業学校でも演説を行っていた。この森が帝国大学制度を構想し、東京大学を改組して「国家ノ須要ニ応スル学術技芸」(国家の必要とする学問・技術)を教え、研究する機関としての役割を担う「帝国大学」を設置した。「帝国大学令」第一条 帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス第二条 帝国大学ハ大学院及分科大学ヲ以テ構成ス大学院ハ学術技芸ノ蘊奥ヲ攻究シ分科大学ハ学術技芸ノ理論及応用ヲ教授スル所トス 限られた資源を「帝国大学」に集中させ、国家の必要とするエリートを効率的に養成していく機関として位置づけることが法律によって定められたのである。当時、大日本帝国憲法が起草・制定され、国会が発足し、中央官庁が拡大

元のページ  ../index.html#32

このブックを見る