大阪市立大学の歴史
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17大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 Ⅰこもった演説を行ったことも功を奏して、永年消極的だった府会区部会の態度も急速に好転し、毎年不成立に終わっていた学校経費予算の請求が1885(明治18)年度予算から認められることとなった。 1887年9月1日には商業学校初の全科卒業生2名(飯尾一二と木村祐太郎)が誕生し、翌10月には、矢野校長が退任した。後任の校長心得には、同校教諭だった浜田弘道が任命された。大阪商業講習所時代の学校・学生の様子 商業講習所時代の学校や学生の様子が分かる、初の全科卒業生・飯尾一二の回想文を、以下に少々抜粋してみたい。(以下、『大阪商科大学六十年史』からの抜粋。)  僕が学校へ入ったのは明治18年の8月、暑中休暇の後でした。(中略) その頃学校にランベルト(Edward Brewer Lambert)といふ先生が居りました。明治18年から21年頃まで勤続したと思ひます。その頃は未だ西洋人の非常に珍しい時で、その時分大阪の他の学校には西洋人の先生は1人もゐなかったので、この先生を有つことは確に学校の面目でもあり、又学生の非常な誇りでもあったのです。商売人は前垂掛けに限るといふ趣旨から、先生も生徒も前垂掛の時代、中等学校の総合運動会などで、よく前垂掛を冷かされました。その時お前の方にランベルト先生ゐるかいといって相手を凹ましたものです。 何分にも条約改正のやかましかった頃とて、英語の稽古が大流行、うちの夜学英語科を始めた時など、知名の老紳士で青年達と机をならべてランベルト先生の教えを受けたものが少くない。その折先生は親切な教授振りで、老紳士達の気をそらさなかった態度が皆に気に入ったものか、先生の各方面での評判は大したもので、学校の名声も自然高まるといふ有様でした。ランベルトを囲む1888(明治21)年卒業生たち(前列左端が飯尾一二)近代学校制度整備の流れ ここで、少々本学の歴史から離れ、当時の教育制度の変化についても概観しておくこととしよう。

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