大阪市立大学の歴史
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15大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 Ⅰ      最少: 14名・1882年1月 なお、当時の教科課程のあり方は、現在の学校におけるそれとは異なっていた(表Ⅰ−1参照)。例えば正則科は1〜6級からなっている。4年半の中で、正則科全科すなわち1級まで修了し卒業したのは山口県出身の今田健助のみであった。商売人には、理屈っぽくなるため高度すぎる教育は不必要であるといった考え方があったせいかもしれないが、2級卒業は上記の今田および鹿児島県出身の町田豊をふくむ4名にすぎず、3級卒は6名、4級卒は14名、5級卒は21名、6級卒は46名であっった。また、速成科では全科卒は2名、簿記全科卒は1名であった。4.近代学校制度への組み込み近代学校としての成り立ち 講習所時代の末には、私立開所当時中心となった五代が亡くなり、門田も事業が傾き、経済的援助の支柱となる者がいなくなった。さらに、地元の「老練の商家」のなかには、「商業は現場の経験と熟練のみで十分であり、教育は必要ない」とする者も多く、また、府議会での資金援助に対する消極姿勢などとも相まって、運営の資金繰りは非常に厳しい状況となっていた。 そこで、せめて経費の半額なりとも負担をと、国(農商務省)に対する要請を行った。その説得の際には、同校の「広域的有益性」を強調した。関西地方は言うまでもなく、中国・四国・九州地方からも、子弟が「実地商業学の演習」のために大阪に派遣されおり、それらの地域の商業活動にも影響を及ぼすということを説明したのである。実際に当時在籍していた学生119名の本籍地をみると、大阪府下57名、大阪を除く近畿地区12名、中国地区22名、四国地区14名、九州地区8名、関東東北地区4名、北陸地区2名という内訳であり、確かに府下近畿地区に限らず、中国・四国・九州を中心に近畿地方外からの学生が在籍していた。 しかし、結果としては農商務省宛の補助金要請は却下され、主管である文部省から、多くの資金がかかる第1種第2種併設ではなく、まずは第1種のみの設置を行うよう、計画案の見直し要請がなされた。そこで、至急計画を第1種

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