大阪市立大学の歴史
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14Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 その後、1884(明治17)年3月に、天野に代わって、やはり大阪府御用掛だった吉良亨(後に矢野と改姓)が所長心得に任命されている。吉良は慶應義塾の出身で加藤政之助の旧友であり興亜会大阪分会創立員の1人でもあった人物である。 この吉良が所長心得に就任する直前の1884年1月には、文部省によって、日本における近代的実業学校制度の整備の一環である、「商業学校通則」が定められている。この「商業学校通則」は、日本の商業教育に関する最初の規則であり、はじめて商業に関する「学校」設置の規定を設けたものである。その中には、第1種(商業自営者養成のため)および第2種(商業や企業の管理者養成のため)の商業学校の基準が定められていた。 大阪商業講習所も吉良所長心得の下、この通則に沿った、第1種と第2種の学科を併せて教授し、1種卒業後には2種へ編入出来る「商業学校」への再編成を目指すがこれはスムーズには行かなかった。その経緯については、次節において触れることとしたい。 ところで、私立および府立の商業講習所通算4年半の間の在籍生徒数の増減を見ておこう。正則科   最多: 65名・1885年3月(商業学校移行直前)      最少: 17名・1882年1月夜学速成科 最多:107名・1882年6〜8月1886(明治19)年頃の生徒および職員と矢野(吉良)校長

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