大阪市立大学の歴史
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13大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 Ⅰし、山本が正科生に演説の稽古までやらせたという話が残っている。五代を会頭とする当時の大阪商法会議所の議員たちの間で議論が活性化しない状況を見てきた山本が、こうした現状を悲観し、「商人といえども卒業後は株主総会やその他の場所で公衆を前にしてその所信を述べ得るように」しておかなければならないとの思いで進めた演説練習会だった。 しかし、当時は、大隈重信が下野し、また、大日本帝国議会が開設される準備が進みつつあるなかで、政党の誕生や、政治論議の活発化が見られ、治安当局が市民の政治的活動に警戒感を募らせていた時期であった。そのため、このような演説練習の取り組みも、大阪府庁から警戒され、注意がくだされた。また、府知事の学校見学も実現していないうちに、偶然来阪していた大隈重信率いる改進党の前島密ひそからに先に学校を見学させてしまったことなどについて、府から非難されたことも重なって、山本教頭は、伊庭所長が辞職した翌月の1882(明治15)年9月には、自ら講習所から身を引いた。 伊庭所長に代わって次の所長となったのは、天野皎である。天野は東京師範学校を卒業し神戸師範学校長などを経て、大阪府御用掛となっていた人物である。 この天野所長時代は、授業料が無料あるいは低額であったため、経営維持には相当の困難があった。有志者の資金援助を前提に進められた府への移管であったが、当時の松方デフレ不況の影響も大きく、必要な寄付金がなかなか集まらなかった。しかし、府は講習所を「最緊要ノ事業」とみなして他費目から経費補填し、さらに、大阪府内の有志に新たに資金援助を呼びかけるなどして、新たに12名からの合計580円の寄付を取り付けた。また、当初の創立員のうちの12名からも年金800円が払い込まれた。 一方で、大阪府の区部(旧大阪城下の東・西・南・北区4区、後の大阪市の中核となる部分)の1882(明治15)年度地方税からの支出については、区部会は、商業講習所の必要は認めつつもこれを拒否した。(その後、資金支出に理解を示すようになるのは、後述のとおり1885(明治18)年のこと。)山本 達雄

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