大阪市立大学の歴史
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11大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 Ⅰ営費を1人で立て替えており、当初の運営は門田個人の経済的尽力に支えられていた面が大きかった。 続いて多くの資金を出資したのは、やはり地元の旧家の豪商たち、住友吉左衛門、鴻池善右衛門、そして平瀬亀之助らであった。かれらはそれぞれ450・350・200円の出資を1882(明治15)年から1885(明治18)年までの間に行った。さらに、五代や、新興実業家の藤田伝三郎および杉村正太郎らが、それぞれ200円、150円、150円といった多額の寄付を行っていた。府立大阪商業講習所の発足 さて、府知事は、その後すぐ、同1881(明治14)年7月27日にこの請願を受理し、財産その他の引き渡しを指令し、8月12日には教員等もそのままの継続勤務を求めた。また、校舎も同時に移転して、事実上、府に講習所の運営が移管されることとなった。実質的資金負担者は地元の実業家たちであり、施設設備もそのまま寄付されたため、移管は、特段の問題もなくスムーズに進んだ様子であった。 新しい校舎は、西区江戸堀南通3丁目18番の旧府会議事堂2階であった。 桐原捨三は、これを機会に所長職を辞職し、代わって教員の木村復次が短期間所長心得をつとめ、その後11月からは岡山商法講習所の教頭だった山本達雄が、やはり短期間ではあったが所長心得となった。この山本は、桐原、加藤らと同様、慶應義塾出身で、後に日銀総裁をはじめとして大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣等を歴任、男爵となった人物である。桐原は、大坂新報社に移っ府立および市立時代の江戸堀校舎

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