大阪市立大学の歴史
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8Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流びしとぞ。後日の盛大は今より早く思ひやられる(『朝日新聞』1880(明治13)年10月22日雑報欄) これらの希望者に対し、入学試験を課し、開所当初の生徒数は60名余りであったが、翌12月にはすでに夜間部だけでも100名を超えたとされている。初代所長桐原捨三の教育理念とカリキュラム 大阪市立大学の130年余りの歴史における、最初の開学趣意書およびカリキュラムとされる『大阪商業講習所設立之主意及規則課目』なる冊子が、初代所長、河野(後の桐原)捨三によって出されている。 「社会」の義務を知るものは、不屈の気力をもって工業を興し、商売を繁盛させ、西欧列国の経済的圧力を排除し、国内の正常な経済活動を促し、富国の基礎を築かなければならない。そのためには、まず、個人個人がそれぞれ必要な「智見」と「経験」を得ることが最も重要であり、とくに商業が盛んな大阪においては、府下に商業講習所を設けることが緊急の課題だとしている。 発足当初の講習所の状況はどのようなものだったのか? まず、昼の正則科と、夜間の速成科の2部に分かれていた。「旧風」の学問所のように陳腐な書物を講ずるということではなく、「簿記・経済・算術」の3科を中心としつつ、日用の「習字作文」なども行われ、さらに、「実地演習」の授業も行われて「実地商売取引」の習熟もはかられたり、実際の商売に則したケーススタディや討論も行ったりしていた。この「実地演習」では、講習所全体を「一大商業界」とみなして模擬の会社・官庁・取引所などをおいて、学生自らが模擬取引を行う手法などを取り入れていた。正課の課程外では「原本簿記」や「原書講読」「英語学」「支[ママ]那語(=中国語)学」なども開講されていた。「支那語学」の教授は興亜会支那語学校に委託されていた。 入学金は1円、授業料は毎月前金で50銭だった。また、休業日は日曜と祝日、桐原(河野)捨三

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