大阪市立大学の歴史
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6Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流つであった。かつて「天下の台所」として栄えた大阪は、明治維新によって、その基盤が根底から崩れていた。諸藩の蔵屋敷撤退とともに「大名貸し」で栄えた多数の豪商が倒産し、また、貨幣の銀目制度廃止も商取引を混乱させた。大阪の経済は大打撃を受け、江戸時代最大42万を数えた人口も、その半分近く、26万人にまで激減していた。大阪の衰退は深刻であった。 さて、加藤の商法学校創設の主張に、共鳴・賛同し、その創設に際して多大なる尽力を惜しまなかったのは、大阪の豪商門田三郎兵衛であった。門田もまだ弱冠26歳の青年だった。五代の指導のもと、門田、加藤、桐原(河野)捨三の3人が中心となって、創立準備が進められた。講習所初代所長を務めることとなる桐原(河野)は、加藤より1歳年少で慶應義塾同窓だった。  当初の仮創立事務委員には、これらの門田、加藤、桐原(河野)のほかに大三輪長兵衛が加わっている。創立員がそれぞれ年50円以上出資し、10年後には事業収入と利子によって財政的に自立する計画だった。 なお、五代以下、設立に関わった上記5名はすべて「興亜会」という「日清提携」すなわち日本と中国の連携を軸とする「アジア連帯をもとめた文化団体」のメンバーであった。 以上見てきたように、直接的には加藤の論説が発端となって設立が進められた。しかしその背景には、日本の近代化推進、国力増強のための近代商業学校設立という福澤・五代らの構想があった。このような構想への賛同者を得て、一大商業都市大阪に、近代商業学校である大阪商業講習所が設立されたのである。創立に関わった加藤・門田・五代加藤 政之助門田 三郎兵衛創立員筆頭 五代 友厚

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