大阪市立大学の歴史
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資料181日に開学式が行われた。これより先き4月7日から9日まで入学試験が施行され、下旬には入学許可者の決定を見た。そのころには既に各学部の教授陣容も一応ととのつていたので、開学式が挙行されてから暫くの後、新制大学第1年度の授業が一せいに開始されたのであつた。 あらまし右に述べたような経路をたどつて大阪市立大学は発足したわけであるがさまで長くない期間に設立の準備が完了して、この大学が勢いよく発足することが出来たのは、設立の仕事にたずさわつた多くの人々の熱意にみちた協力に負うところが多大であることは言うまでもないけれど、既存の大阪商科大学、大阪市立医科大学、都島工業専門学校、大阪市立女子専門学校、経済研究所、生活科学研究所等々というような種々の教育ならびに研究機構との緊密なつながりにおいて、新設綜合大学の人的内容が形成されたと云うことに負うところも亦甚大であつたことを力説しなければならぬ。 なお誤解を避けるために言い添えておくが、大阪商科大学は大阪市立大学の成立と共に直ちに後者に吸収され、後者と合体したわけではなくその学部、予科および高等商業部の現在の学生が卒業し又は修了してしまうまでは旧制のままに存続することとなつて居り、学部は昭和28年春に、予科は昭和25年春に、高等商業部は昭和26年春に解消するわけである。都島工業専門学校および大阪市立女子専門学校の場合にもそれぞれ現在の学生が卒業してしまつたときに解消する予定である。また大阪市立大学の医学部は現在未だ開設されて居らず、昭和26年から開設されるはずである。三 大学の特色は高等学校や中学校や小学校などよりも一層高い程度の学問的教育を行う機関たる点だけに存するものではなく、それと同時に諸種の学問の世界的進歩とのあいだに不断の連関をたもちながら学術研究を行う機関たることによつてのみ、大学は真に大学としての使命を発揮し得るのである。あらたに設立された大阪市立大学も勿論かような大学の根本的特色をそなえるものでなければならぬはずである。 終戦の当時を回顧すると、全国を通じて唯2個の公立大学が存在するのみであつた。京都府(医科・脱)立大学および大阪商科大学がすなわちそれであつた。わが国の諸大都市の中でひとり大阪市が大学を経営していたということは、大阪市にとつて一つの小さからぬ誇りであつたと考えられるのであつて、かような歴史をもつている大阪市が、日本の新しい歴史的転換の時機に際して真に綜合大学と呼ばれるにふさわしい大学の創設を企てるに至つたことは、その由来する所が深いと言わざるを得ない。ただし大阪商科大学の場合には単科大学であつただけに、高等教育機関たると同時に学術研究機関たるべき大学の本質をゆたかにそなえた大学の成長が、大阪市の経営によつて可能とされたのであつたが、文科系統の3学部ならびに理科系統の3学部を包容する大阪市立大学をして、真に大学としての実質をそなえた大学としてすこやかに成長せしめると云うことは、以前の場合に比べて幾層倍の努力を要する困難な課題であることは言うまでもないところである。戦争によつて甚大な打撃を被つた大阪市が斯ような困難な事業に着手したことは、或いは無謀のしわざであると考えられるかも知れないけれど、幾十年の将来における大阪市の発展を見通す立場からすれば、そのような考えかたの浅薄さが洞察されるであろう。「大規模の綜合大学の創設経営のようなことは宜しく国家に一任すべきである」というように主張する人があるけれど、国家そのものが今年から従来よりも

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