大阪市立大学の歴史
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180資料恒藤恭「市立大学の構想」(『大阪人』第4巻1〜3号,1950〔昭和25〕年1〜3月,所収)市立大学の構想恒藤 恭一 わが国における第2の大都市であり、ことに産業都市としては第1位を占める大阪市が、祖国の再建、新しい日本の建設という歴史的の大事業達成のために大いなる貢献を致すべき使命を課せられていることは、あらためて言うまでもないところであろう。戦後の大阪市に課せられた斯ような使命を果たして行くために多大の困難と障碍とを克服しながら、さまざまの方面において労苦にみちた努力が着手され、遂行されつつある次第であるが、その中の一形態として教育の方面における努力を挙示することができる。大阪市立大学の創設は此のような努力の現れの一例に外ならない。 戦災を被つた他の諸大都市のいずれと比べてみても、災禍の程度の甚大であつた点においてまさるとも劣らないところの大阪市ではあるけれど、新しい日本の教育の振興のために寄与すると同時に、面目をあらためた文化的大産業都市として大阪市を復活せしめようとする念願をもつて、大阪市政にたずさわつて居られる人々が、一般市民の支持を受けつつ、学校教育の新しい制度をして真に効果的たらしめるために熱心に努力されていることは、敬服に堪えないところであるが、とりわけ新大学制度に則つて6学部を包含する綜合大学の設立を企図し、その実現のために苦心されたということは、深いおもんばかりと旺盛なる建設的意力とに基づくものであつて、真に特記するに値いするものと思う。現在全国を通じて公立の新制大学は、29校存在しているが、その大多数は単科大学であつていわゆる綜合大学的な性格をもつているものは甚だ少数である。この後の種類に属するものの中で、東京都立大学は人文学部、理学部および工学部を、浪速大学は工学部、農業部および教育学部を、西京大学は文学部、農学部および家政学部をもつていると云うように、3学部を包容しているに過ぎず、真に綜合大学と呼ばれるにふさわしい規模をそなえているのは、商学部、経済学部、法文学部、理工学部、医学部および家政学部の6学部を包容している大阪市立大学があるだけである。わが国における産業都市として第1位に立つ大阪市であればこそ此のような大規模の大学の創設維持も可能なわけであるが、その設立を企図された大阪市の行政首脳者たち及びこれに賛同された大阪市会の議員諸氏が大阪市の文化的発展に対して多大の熱意をもつて居られるのでなかつたならば、到底大阪市立大学は現にそなえているような規模と内容とをもちながら生まれ出ることは出来なかつたであろう。二 かえりみると、近藤市長が新制綜合大学創設の意図をいだいて居られると云うことを私たちに初めて語られたのは、昭和23年6月のはじめのことであつたが、7月に至つて各方面の代表的な人々を集めて新制大学設置準備委員会が組織され、この委員会における審議の結果、いよいよ市立綜合大学創設のための準備が進められることとなつた。その後のさまざまの経過についての叙述は省略するが、――昭和24年2月21日付をもつて文部大臣から設置が認可され、4月1日に設立、6月1

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