大阪市立大学の歴史
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178資料関一「市立商科大学の前途に望む」(『大大阪』第4巻4号,1928〔昭和3〕年4月,所収)市立商科大学の前途に望む関  一 大阪市が久しく熱望の的であつた市立商科大学も、愈この4月を以て開校の運びにまで漕付けた。顧れば大学令の改正其他で、この数年来色々の障害に悩まされて来たが、市会の建議、有志各位の尽力と時勢の発展とは、遂に是等の難局を打開して、日本最初の市立大学が商工都市を以て世界に誇る我が大大阪に建設されることになつた。 東京にも京都にも、其他地方の都市にも大学は在るのだから、大阪に大学の一つや二つ出来たからとて、特筆大書する必要はないと思ふ人があるかも知れぬ。それも尤である。その点から言へば、大阪の大学は寧ろ遅過ぎたと言つてよい。往年山紫水明の京都に帝国大学を建設する時、故穂積男爵は京都よりも大阪に大学を設置すべき事を主張された位である。「大学は学問の中心だから、必(ママ)ずも大都市の甍の中に設ける必要はない、田園清秀の地を卜すべきである。」などゝ言ふ議論はもう今日の時勢にはうとい。大都市なるが故に、商賈紅塵の巷なるが故に、大学の必要がある。煙の海、甍の波の中なればこそ学問の中心が必要になつて来るのである。之を独逸の実際に見ても、大都市の大学は年と共に繁昌して、其他の大学は左程でもないことが統計によつて証明されてゐる。元来大都市は、一般に学問芸術が発達して居り、美術館、図書館、運動場等の設備が整ひ、尚又多くの展覧会、講演会が開催され、文化的の各種の機関が具備されてゐるから、現代生活を象徴した社会的経済的関係の交錯する大都市の大学に、次第に多数の学生が集中するのは理の当然である。 飜つて大都市自身から考(ママ)へば、年々著しくなる物質文明の弊のために、これが緩和剤となり防腐剤となる精神文化の中心たるべき大学教育機関の必要が、日と共に痛感される。かゝる意味に於ても、大阪に大学の一つや二つ出来たからと言つて決して誇るに足らないのである。 併し今回の大学は、単に大阪の繁華の地に大学が建設されると言ふのではない。大阪市自身が大学を建設するのである。換言すれば我が大大阪の市民が、その自身の手によつて大学を建設するのである。大阪市民は我が国に於て先例のない、市民の力に依る市立大学の先鞭をつけるのである。この点に我々は市民と共に、多大の誇りを感じ、又其の将来に向つて、健全なる発達を保証する責任があることを覚悟せねばならぬ。 如何に市民の大学だからと言つても、其の経費を市の財政で負担するに止つて、その組織や内容が国立、又は府県立其他の大学と選ぶところがなければ、市立大学は決して吾々市民の誇にはならない。元来大都市大学の主張する処は、その余りに進みすぎる営利的物質勢力のために、これが濫用悪化を防止すべき学問芸術の中心たるべき大学機関を要望するのである。今日世界の大都市、100万200万の人口を有する都市生活には、必ずや不健全なる社会状態が発生しつゝあるもので、之に対してはどうしても神聖なる学問の中心が特に必要である。彼の徳川時代に於ける懐徳堂が、大阪町人の手に依つて維持された事も、思へば甚だ意味が深い。只一つの懐徳堂こそは、実に往年の浪花の町人にとつては大切な「オアシス」であり、精神文化の中心であつたに相異ない。 今日の経済社会状態から考へると、大阪の如き大都市に於て、特に精神文化の中心を有つことの

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