大阪市立大学の歴史
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5大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 Ⅰとあるように、加藤はまず、全国の商業の中心として栄えている大阪に、なぜ商法学校がないのか、という問題提起をしている。 その上で以下のように、当時の西欧列強国と対等な貿易を行い激しい競争の中で日本という国が生き残り繁栄していくためには、1日も早く「商法学校」を作って、専門的人材を育成する必要があるという主張がなされた。外国貿易ノ如キハ国家興敗ノ存スル所ニシテ、(中略)一日モ早ク商法学校ヲ設ケテ商業ノ術ヲ研キ、取捨折衷、従来ノ弊ヲ矯メ、帳簿ヲ改正シテ会計ノ道ヲ明カニシ、貿易市場ニ立テ外人ト商利ヲ争ヒ、彼輩奸謀ヲ看破シ、進ンデ海外ニ通商シ、到底日本商人ノ才ト日本ノ富トヲ合シテ彼ニ比スルモ、敢テ恥ヂザルノ地位ニ達セザル可ラス、此時ニ至テ現時日本ノ商人ハ、始メテ内外ノ責ヲ全フセシ者ト云フヲ得可キナリ 慶應義塾で福澤の教えを受けた加藤のこの意見は、基本的に、福澤の考えていた日本の教育の近代化(西洋化)、および実学重視の流れに沿ったものであった。(福澤は、大阪に生まれ、青年期には大阪の緒方洪庵の適塾でも3年以上学んでおり、その際の経験は「人間普通日用に近き学問」である実学―実用的学問、実証の学問―重視の考え方の形成に影響を与えたと考えられている。)だれが大阪商業講習所を作ったのか この加藤の問題提起は、当時の「大阪財界の指導者」であった五代友厚にも支持されていた。加藤の社説が掲載された『大坂新報』は、『大坂日報』とならぶ当時の大阪における2大紙のひとつであり、五代が経営していた新聞であった。現在の大阪商工会議所(初代会頭)、大阪株式取引所(現、大阪証券取引所)の設立をはじめとして、当時の財界をリードし、大阪の商工業の復興と近代化に、私財もなげうち多大なる貢献をした五代友厚は、「大阪の恩人」といわれている。その五代が大阪商業講習所の創立員の筆頭に名を連ねており、講習所創立の中心的役割を果たしたのである。 五代をはじめとする、大阪の財界をリードする人たちにとって、当時、非常に苦しい時期にあった大阪を商業都市として再興することは、大きな命題の一

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