大阪市立大学の歴史
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4Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流治36)年以降に法律で規定された専門学校は、現在の専門学校とは異なっており、戦後、大学として存在しているものの多くが、法律上、専門学校に位置づけられていた。 本章ではまず、本学が高等教育機関へ発展していく基礎・基盤となった、本学第1の源流が、中等教育機関として発展していく歴史を中心に見ることとする。 商業教育分野では、まず、1874(明治7)年に大蔵省銀行課内銀行学局が開設され、英国人招聘教師による簿記学・経済学などの銀行実務家教育が行われていた。また、1875(明治8)年8月には、森有礼が提唱し福沢諭吉がそれに賛同協力した私立の商法講習所が、米国人教師ホイットニーを招いて東京に作られていた。これは、大阪商業講習所開設の5年前のことだった。この東京の商法講習所は、現在の一橋大学の源流をなすものであり、近代商業教育の発端であるとされている。また、1878(明治11)年には、神戸でも、神戸商業講習所が、神戸港の貿易の発展を担う人材育成を目的として生まれている。兵庫県令(県知事)が、福澤諭吉の協力の下で、設置したものであった。なぜ大阪に商業学校がないのかという問い 大阪は、江戸時代には幕藩体制を支える「全国的な商品流通・金融の中心地」として繁栄しており、明治維新当時すでに、一大商業都市だった。 東京(や神戸)には商業の近代化のための学校があるのに、大阪という商業都市に、「商業」の「近代学校」がないのはおかしいという意見があがり、大阪商業講習所は作られた。そもそも、きっかけとなる問題提起をしたのは、加藤政之助だった。加藤は当時26歳、『大坂新報』編集主幹として東京から着任した若者だった。慶應義塾の福澤諭吉の下で学んだ若者であり、大阪にやってきたわずか4日後の1879(明治12)年8月14日および15日付で『大坂新報』に、社説「商しょうほうがっこう法学校設もうケけざるザル可べかラらずズ」を発表した。戸ここ々密接建築壮麗、溝河四通、屋上ノ楼閣ハ高ク天ニ聳そびエ、商戸ノ旗章ハ翩へんぺん々風ニ翻リ、実ニ全国商業ノ中心ナリ、然ルニ其中特ニ怪ム可キノ一事アリ、此商売ノ中心府ニシテ、商法学校ノ設ケナキ是ナリ

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