大阪市立大学の歴史
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3大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 ⅠⅠ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流(1880年〜1890年)‌ ―大阪商業講習所から市立大阪商業学校へ―1.日本の近代化と大阪商業講習所(私立)の創設―福沢・五代・加藤・門田どのような時代に創設されたのか 現在の大阪市立大学の複数ある源流の中で、もっとも古いものは、大阪商業講習所の開所までたどることができる。それは、明治維新からわずか10年余りの明治13年、西暦で言えば1880年のことであった。今から140年余り前のこの時期に、なぜ、どうやって大阪に商業講習所が開かれたのか。まず開所当時の時代背景を概観してみたい。 明治維新前の日本は、幕府を中央政権としつつも藩ごとに領地を支配する幕藩体制社会であった。それが、明治維新を契機として、天皇を中心とする中央集権的近代社会へと大きく転換し、同時に開国し西欧社会を中心とする他国との交流が進んだ。しかし、近代国家としての国の諸制度の整備は、明治維新直後に完成したわけではない。徐々に法律や体制が整備され、大日本帝国憲法や国会など近代国家としての基本的枠組みの完成をみたのは明治維新から20年近くも経った頃だった。 大阪商業講習所が生まれた明治10年代前半(1880年前後)といえば、このような明治という新しい時代が始まって10数年たち、近代日本の体制が少しずつ整いつつあった時期だった。近代化すなわち西欧化することによって、開国時に結ばざるを得なかった不平等条約を1日も早く改正し、対等な一国として西欧列国に肩を並べることが、国を挙げての悲願だった時代である。 そのために、近代化をリードしていくことができるエリート人材の先行育成が国の高等教育政策の基本方針となった。つまり、西欧の近代的学問を学び、国政や国の工業・商業など各分野をリードしていくエリート人材を育成する近代高等教育制度を整備していったのである。 高等教育制度とは、現在は大学・大学院・短期大学・高等専門学校などがそれに当たるが、戦前は、大学・大学院を初めとして、旧制高等学校、専門学校、高等師範学校、高等実業学校、高等女学校などのことである。なかでも1903(明

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