大阪市立大学の歴史
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155 21世紀を迎えて奮闘する大阪市立大学 Ⅶあたり、市区町村の認可保育園等では受入れが困難な場合や、緊急、一時的、断続的に保育を必要とする場合においても、安心して教育・研究及び勉学が続けられるよう支援することを主な目的とするものである。時折、杉の子保育園山之内遺跡と杉本キャンパス―大学の時間枠を越えて― 本学創立125周年を記念して2006(平成18)年に完成した高原記念館は、敗戦後の米軍による学舎接収時代の遺物である「チャペル」(通称)を撤去して建設された(米軍による学舎接収、および返還に至るまでの本学の運動の経緯については、79〜80、85、88〜90ページを参照)。このたび、高原記念館の建設に先立ち、大阪市文化財協会により、チャペル跡地の発掘調査が行われた。 杉本キャンパスは、JR杉本町駅を中心とした1.5キロメートル四方に位置する山之内遺跡の一部にあたる。この遺跡の存在は、第2次世界大戦前から知られていた。原始時代において、上町台地の西斜面に位置するこのあたりは、大阪湾に臨む海辺であったので、西側に隣接する遠里小野遺跡とともに、土錘や飯蛸壺などの漁具を出土する遺跡として認知されていた。昭和50年代には本格的な発掘調査が行われるようになった。その成果として、弥生時代前期から中期初頭にかけての土壙墓状の遺構をはじめ、古墳時代の掘建柱建物や土坑などが検出され、山之内遺跡は弥生時代前期から長期間にわたって継続して営まれた集落遺跡であることが明らかになった。特に1986年には、杉本キャンパス内で12基の方形周溝墓をはじめ、小児を埋葬した土器棺などが発掘され、同年12月に行われた現地説明会には500名を越える見学者が訪れ、注目を集めた。 今回のチャペル跡の発掘調査では、古代の遺構や、江戸時代にこのあたりの粘土を取った土取り跡が検出された。このほか、スラグ(鉱滓)といって、溶鉱炉・平炉などで鉱石を熔錬する際に生じる非金属性の滓も発見された。 これらの発掘調査の成果は、江戸時代に操業した住友銅吹所がその原料粘土を当地周辺に求めていたほど、当地は良質の粘土の産地であったこと、また、そもそも我孫子・苅田を含めた住吉区一帯には鋳造に関連する遺構や遺物が分布していることなどと結びつけて考えることができる。 本学の歴史という時間枠をはるかに越えた、いにしえの人々の営みが、この地には刻まれている。調査区全景撤去前の「チャペル」

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