大阪市立大学の歴史
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138Ⅵ 「第2世紀」を迎えた大阪市立大学志全寮の抵抗のため退寮させられなかった。さらに志全寮の場合に問題だったのは、1990(平成2)年から翌年に関していえば、天皇即位の礼、大嘗祭、国際平和維持活動、関西新空港への反対のために迫撃砲の撃ち込み、爆弾テロ、警察官派出所襲撃、住居侵入、放火等の反社会的行為を行った疑いのある過激派学生が不法に在寮していたという事実だった。1990(平成2)年3月から翌年4月までに警察の志全寮捜索は10回にも及んだ。 中核派は全国一斉決起の一環として、1990(平成2)年9月11日、11月8〜10日にバリケード封鎖を計画した。9月11日のバリケード封鎖では、中核派実行部隊が志全寮を出撃拠点にしていることを多くのものが目撃した。そこで、本学の教職員は立ち上がり11月8日のバリケード封鎖には体をはって防止し、授業を守り抜いた。そして、学生部委員会のリーダーシップのもとで志全寮の存続をも含めた正常化を決意した。その年の12月に、志全寮自治会に対して、①要塞化されていた401、402号室の改善、②寮長の責任による各部屋の入居者名のリストアップ、③短期宿泊を含めて学外・学内を問わず非寮生の宿泊の在り方についての協議の申し入れ、④入寮募集に関する書類の扱いを見直すための協議の申し入れ、⑤在寮年限についての折衝の申し入れを行った。当然のように志全寮自治会は猛反発した。 以上のような活動家学生の反発を招きかねない強硬路線に対して、とりわけ従来から授業妨害の被害を受けてきた文学部外国語担当教員を中心に強い懸念が示された。大学評議会はそれに配慮しつつも、徐々に強硬路線に傾斜した。ついに1991(平成3)年3月の臨時評議会において1991(平成3)年度の入寮募集停止を決定した。この評議会直前に中核派によるビラ配布のため、一部評議員は、この決定が及ぼす影響を懸念していた。しかし、学生部長から、前日自宅で2名の中核派元学生に脅迫された旨の報告があり、その上で、「正常化にとって今が正念場である、大学は今こそ管理責任を果たすべきである、暴力や脅しに屈服してはならない」趣旨の発言をし、正常化のためには一刻の猶予も残されていないことを強く訴えての決定だった。また、この日の朝刊に中核派の元大阪市立大学生が小樽市の運河にて水死体で発見された記事が掲載された。学長・評議員に深い責任を感じさせたなかでの決定でもあった。 加えて志全寮に求めていた寮生名簿から不正入寮者が判明し、また寮生名簿

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