大阪市立大学の歴史
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133 「第2世紀」を迎えた大阪市立大学 Ⅵ入れられる状況になったことだった。以上のように劣悪な状態を改善しようと1960年代半ばから図書館の将来構想に関する検討が始まっていた。しかし、大学紛争やその後の各学部の整備を優先したこと、図書館側でもなかなか具体的な案を示すことができないこと、から進まなかった。ようやく、1984(昭和59)年5月の「『市立大学図書館の将来計画に関する』館長諮問委員会の答申」において附属図書館の将来像を明確に示しえた。その答申では、大学図書館の機能を①学習機能(開架閲覧室、参考図書室、視聴覚施設、閲覧席、休憩室)、②研究機能(資料の収集および保存、情報検索の促進、大学間の相互利用の促進、施設の充実)、③保存機能、④総合機能として捉えた上で、本学では大学としての総合的な将来計画を欠いたまま今日まで至っており、図書館としても当面の業務に追われ、図書館の近代化や将来計画の綿密な立案がなされなかったとまとめた。そして、将来計画の策定において、図書館の大規模化による質的な改善の必要、学術情報システム等に対応した全国的近代化ネットワークへの参加の必要、とはいえ不可欠な省力化への考慮の必要、要員にも配慮したシステム化の必要を訴えた。その上で、第4書庫の増築ではなく建て替えを結論づけた。 上述の「館長諮問委員会の答申」を受けて、将来計画委員会第4部会は1986(昭和61)年9月に「附属図書館の将来計画に関する審議経過」という形で緊急答申を行った。その結果、将来計画委員会委員長は同年10月、評議会議長(学長)に対して附属図書館の建て替え計画に関する緊急要請を行い、これを受けて評議会は1987(昭和62)年5月に「附属図書館新営委員会」を設置した。図書館問題はついに全学的課題として位置づけられた。 第4は、大阪市が新営図書館を含めた本学の計画を受け入れたことである。それを可能としたのは、当時の大阪市がそれだけの財政的規模を有していたこと、行政として下水道等のインフラ設備もある程度整備されて今度は文化や社会教育の充実へと向かおうとしていたこと、いち早くそうした動きを本学の教職員、特に職員がつかみ、行動したことが要因だった。この点は、前述したように、大阪市の「大阪市総合計画・ステップ21」1991年に大学に関する記述がこれまでになく多く組み込まれた点に表れている。

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