大阪市立大学の歴史
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125 「第2世紀」を迎えた大阪市立大学 Ⅵそれらの結果をいったん集計してから各部局にフィードバックし、また各部局で審議されたものを集め、フィードバックした。このように、その後の本学における「トップダウン」的な決定とは対照的に、まどろっこしいほど手間暇をかけて作業が行われた。 最終的には、関一の抱いた大学の理念、つまり大学とは都市に集積する資本主義の物質文明の弊害を緩和する精神文化の中心として重要だとする理念を改めて再認識して、「都市型大学」、「創造性豊かな都市総合大学」というコンセプトにまとめられた。しかし、すぐにそのコンセプトに到達したわけではなかった。例えば、都市型大学という概念では大学のイメージがローカルとなり、学問の普遍性が損なわれないか、また都市型大学の特質となじまない学問は切り捨てられていくのではないかという懸念や、やはり杉本町という場所は工場等制限法の規制区域にあるため、校地や施設の拡充、学生数の大幅増をはかるために、特に南港地区などへ移転した方が良いのではないかとの意見も出されていた。 1985(昭和60)年6月、「『大阪市立大学マスタープラン・基本構想』に関する答申」が完成した。同答申は計画期間を1985-2005年の20年間とした。その際、「図書館と教養部は、施設水準がたちおくれ、教育研究上の問題を生じている。この解決は緊急最優先の課題である」と述べて2つの全学施設の整備・近代化を将来計画の中心課題と位置づけた。基本計画の策定における問題点 上述の「マスタープラン・基本構想」を受けて「基本計画」策定のための「将来計画委員会」が1986(昭和61)年4月に設置された。1987(昭和62)年10月の「『大阪市立大学マスタープラン・基本計画』の中間報告」を経て「基本計画」がまとめられた。この「基本計画」策定についても、「起草スタッフ会議」が起草した「基本計画案・素案1」が各部局に提示されて部局の意見を聞き、それを反映した「基本計画案・素案2」を作成して、また各部局にフィードバックして意見を聞き、「基本計画案」を作成するという慎重なプロセスをとった。 完成した「大阪市立大学基本計画」は、2010年ごろまでの約20年を計画期間とし、大学院生を中心に30%程度の学生数の増加を見込み、キャンパスは杉

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