大阪市立大学の歴史
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124Ⅵ 「第2世紀」を迎えた大阪市立大学Ⅵ 「第2世紀」を迎えた大阪市立大学(1980年代半ば〜1990年代)―基本計画の策定と全学施設、教育体制の整備、学生寮問題の解決―1.「大阪市立大学基本計画」の策定なぜ大阪市立大学では将来計画が策定されたのか 現在の大学法人化に伴う中期計画策定以前から、本学では自主的に将来計画を策定した。その理由は何よりも、大学全体として重要な施設である教養学舎、専門教育棟、図書館などの老朽化に加え、大学紛争を引きずり続けた結果、広がっていた「暗い」イメージを払拭して大学としての魅力を取り戻したいと願ったからである。 本学のキャンパス整備は、これまでに述べたように設置者である大阪市の財政困難に伴って遅れていた。しかも、こうした遅れは、学内における学部割拠主義によって大学づくりへの全学的な合意を図れず、そのことが大阪市への予算要求に際して全学的なまとまりや長期的な展望を示すことができず、大阪市をして大きな予算を市立大学に投入するのをためらわせたことも関わっていた。その間に1973(昭和48)年の筑波大学を嚆矢として、他大学、例えば大阪大学、大阪外国語大学、大阪教育大学や私立大学では、新たな郊外型大学が設置されていた。それらの大学はいずれも工場等制限法に規制を受けない郊外や都市圏遠隔地にキャンパスを設け、その多くは瀟洒で広々としたキャンパス、建物をつくり、アメニティの高い大学というイメージを打ち出していたのである。 1983(昭和58)年9月「マスタープラン策定委員会」が設置され、作業が開始された。当初は、主として土地利用、施設、設備などの大学のハードウエアの整備を念頭に置いたが、実際の調査・検討作業が始まると、大学の理念、役割、組織などの再定義や改革にまで議論が及ぶものとなった。マスタープランの策定過程 まず委員会は、1984(昭和59)年、2回にわたってプラン策定のために、「基礎調査」として、各部局の現状と問題点、教育研究理念、将来への構想や具体的な改革案、これらを背景とする施設整備の要望などを逐一提示してもらった。

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