大阪市立大学の歴史
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122Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備り組んだ。 しかし、大学紛争中の1969(昭和44)年6月に商学部助教授の差別発言が起こり、続いて11月には文学部助教授による差別発言問題が起こった。このため、12月、本学は部落解放同盟大阪府連合会の糾弾を受けた。この2つの事件を受けて、商学部においては教養科目「部落問題論」、専門科目「部落産業論」を開講することとし、全学としては1970(昭和45)年10月に同和問題担当教員を専任化して体制を整え、1971(昭和46)年5月に同和問題研究会を発足させ、1973(昭和48)年3月から同和問題研究室研究員会議を開催した。7.100周年事業の実施とマスタープラン計画への着手 本学は1980(昭和55)年に、大阪商業講習所が設立された1880(明治13)年から数えて100周年を迎えた。そこで、1976(昭和51)年よりその準備に取り掛かり、創立百周年記念事業委員会の下で、記念事業を企画、実施した。記念事業として、大阪市立大学文化交流センターの設置、大阪市立大学百年史の編纂と刊行、工作技術センターの設備整備、大阪市立大学学術研究基金、同奨学及び補導厚生基金を増額するなどした。文化交流センターは、「大阪市立大学を中心とする大学教員等による知的情報の提供及び交流を推進して、大学における学術研究の成果を社会に還元し、あわせて学術文化の振興に寄与することを目的」として、大阪駅前第3ビルに開設された(現在は大阪駅前第2ビルに移転)。同センターを中心に各種セミナー、市民講座、シンポジウム、講演会等が催された。また、大阪市立大学百年史の編纂と刊行を通じて、大阪市立大学の現状に対する危機感が醸成し、大学運営の正常化と新たな大学づくりの取り組みを求める機運が次第に高まった。 この背景には、第1に、大阪市立大学百年史編纂作業の中で、大阪商科大学を開学させた第7代大阪市長関一に対する関心が高まり、本学のアイデンティティを再確認しようとする動きが生まれたこと、第2に、大学祭パンフレットに「志全寮」を根城とし、暴力的抗争を繰り返し、授業や試験の妨害を繰り返す過激派の催しが堂々と掲載され、行われていたこと、第3に、紛争後、教育体制等がある程度改善されたことから学生の満足度は高まったものの、特に図

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