大阪市立大学の歴史
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120Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 それでは本学は共通一次試験の実施の結果、どのような影響を受けただろうか。図Ⅴ-2より、大阪府、近畿地方からの合格者数が増加したことが明らかとなる。この点については、「共通一次」実施にともなう「一期校」「二期校」の区別の廃止によって、従来、地方の受験生にとって可能だった「大阪市立大学」(一期校)と地元の「二期校」の2度の受験の道をとざしたことがその理由だと考えられる。 また、前述したように、共通一次試験という「事前のふるい分け」、偏差値による序列化の進展によって本学の2次試験受験者を減少させて軒並み競争率を下げさせた。大学紛争後の大阪市立大学生 前述のように、大学紛争後に、限定的であったかもしれないが、教育体制は改善されて授業に対する満足度は高まった。また共通一次試験の実施の結果、偏差値の序列化の進展のため、以前の学生とは異なって、「他律的」に志望した学生が、本学に入学してきた。このためか、『調査報告』をみると、明らかに学生の授業への出席状況が「改善」されている。調査項目は「常に出席している」、「かなり出席」、「あまり出席しない」、「ほとんど出席していない」、「回答なし」だったが、「常に出席している」「かなり出席」をあわせたものと、「あまり出席しない」「ほとんど出席しない」をあわせたものについて1971年にはそれぞれ52.7%、46.6%、1975年には64.6%、34.8%、1979年には66.9%、31.6%、1983年には63.4%、35.3%と推移していた。出席者は6割以上を示すまでになっていたのである。 また、授業に出席しない理由について、やはり『調査報告』をみると、「授業がつまらない」「朝寝坊」から「クラブ」「アルバイト」を理由とする欠席に変化したことがうかがえる。なお、同じ時期にクラブ、サークルへの加入状況をみると、クラブ、サークルへの加入者が1971年の53%が年々増えて、1983年には67%にまで増加していたのである。 大学祭も1978(昭和53)年に現在の「銀杏祭」(ぎんなんさい)という名称がつけられ、大学紛争で荒廃した大学生活の再生を目指して、田中記念館フェスティバル、クラス会からの出展や多くの模擬店の出店で盛り上げられた。

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