大阪市立大学の歴史
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118Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備して対応しようとした。また、教授会の設置等教養部体制の検討もなされたが、結局、現体制のままで推移した。そうしたなかで、大学紛争が起こった。そこで前述の「7.3改革案」に従って、大学紛争後に真剣な検討がなされた。例えば、教養課程と専門課程の時期的分離制度を廃止して、平行的に実施すること、教養部を廃止し、教養課程の学籍簿は各学部の責任として、「完全な縦割り」へと変更することなどであった。しかし、以上の改革構想は実現されなかった。唯一、総合科目を設置したり、「問題論」講義(部落問題論、公害問題論等)を開始したくらいだった。 とはいえ、『学生実態調査報告』(以下、『調査報告』と略す)における教養教育に対する学生の評価をみると、向上していた。調査では、「満足」、「だいたい満足」、「少し不満」、「全然不満」、「回答なし」の項目をあげている。特に「だいたい満足」、「少し不満」、「全然不満」の推移をみると、1971年にはそれぞれ19.3%、39.8%、34.3%と「不満」割合が大きかったのに対して、1975年には31.9%、40.7%、21.8%、1979年には41.2%、34.9%、17.2%、1983年には44.7%、36.1%、14.2%と推移した。「満足」の度合が増加し、「不満」の割合が減っているのである。 また、各学部では専門課程において、大学紛争後に改革が進められた。例えば、商学部ではプロゼミ出講教員数を増加させたり、法学部では必修制から自由選択制に切り替えてガイダンスを徹底した。文学部ではカリキュラム改訂を行って、必修科目単位数の増加、卒論単位数の倍増、専攻によって必修単位数に幅をもたせる、必修科目内の選択履修を認める等を実施した。理学部は、人文、社会科学系列の一般教育科目の必修科目の指定を外し、工学部は必修科目を減少させ、選択科目を増加させた(工学部の教育は積み上げ式が必要なことから以前の形に戻された部分もあった)。さまざまな努力が行われたのである。 なお、大学紛争を通じて、本学は社会との距離を「広げて」しまった。そこで、関係の再構築を願う意味も込めて、1972(昭和47)年より、大阪府商工会館、中之島中央公会堂等で大阪市立大学市民講座を開催した。

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