大阪市立大学の歴史
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117 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 Ⅴこれに対して、活動家学生は学生部長室の占拠という行動で応え、ついに学生部と寮生の交渉は決裂した。 交渉の糸口を絶たれた大学執行部は、それでも話し合いによる円満解決を願って、学生部長を経験した当時の評議員を交渉役として再開した。その交渉に先立つ1977(昭和52)年1月の臨時評議会において大学執行部は、寮生が過激化して、非常手段に訴えることになるのを避けるためか、「学生側が3条件を認めるまでは開寮しない」とする評議会と学生部委員会の間で確認されていた基本方針をくつがえし、学生との交渉によって新寮への仮入居と杉本寮の1年間の存続を容認した。さらに評議会は話し合いの妨げになるとの判断で、学生部委員会の方針である上記11月25日の文書「新学生寮について」を撤回したのである。こうして、1977(昭和52)年1月17日には、学生側は大学の関係者から鍵を受け取り整然と入寮するという「実力行使」で新寮へ入居を果たした。 1977(昭和52)年度は、以上のような「話し合いによる解決」路線のために学年末試験は長期に延期され、日本育英会の奨学金貸与は休止された。 また、廃寮するはずの杉本寮についても、「団交」の末、1977(昭和52)年6月に当時の学生部長は杉本寮の存続を約束してしまい、杉本寮補修のために一般の予算から流用せざるをえなくなった。その後、1981(昭和56)年度には杉本寮の老朽化で倒壊の可能性あり、との調査が報告され、1986(昭和61)年1月28日徹夜団交の結果、建て替えを確約してしまう。また新寮(「志全寮」)でも寮生は寮費を含む諸経費を払わなかった。 以上の出来事は一層大阪市や大阪市会をいらだたせた。市会では自民党から共産党にいたるすべての会派が大学に寮問題の解決を迫った。経済研究所教授崎山耕作が1986(昭和61)年4月に学長に就任した際、「大阪市と大学は物凄く冷え切った、つめたい関係にあった」と述懐するほどの関係に陥っていた。寮問題の解決は避けられなかった。4.大学紛争後の教育・研究体制の再検討 前述したように、高度成長期に学生定員が増加されたが、その結果、教室数の不足が懸念された。そこで、4号館の建設や理系学生用の実験実習室を増設

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