大阪市立大学の歴史
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116Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備容人員1000名の寮を5カ年計画で建設し、まず第1期分200名寮建設案を大学側に提案した。 大阪市に対して、大学は現実性を考えて、80名寮の建て替え案を要求した。しかし、80名建て替え案に対してゼロ査定が続くなか、学生部の熱意に、大学として1000名寮の建設計画を打ち出し、第1期分200名寮建設を決定した。やはり、大阪市は認めなかった。その理由として以下が考えられた。第1に、寮生は寮費、光熱水費の不払い運動を展開していたからである。この頃、文部省より、学寮管理に必要な経費は大学負担とし、私生活に要する経費は寮生負担を徹底させること、それに先だって負担区分(光熱水費、人件費、消耗品費、食事材料費など)を明確化するようにとの通達があった。それに対して寮生側は反発した。第2に、寮規定問題が解決されていなかったからである。この点は1970(昭和45)年4月、大阪市の監査で指摘された。大学が入寮者の氏名すら把握していないことに問題があるとし、寮の管理体制について抜本的改善を求めていた。 それでも大学は学生との約束を守りたいとの思いから、とりわけ大学紛争後に大阪市に対して熱心に要求を続けた。その結果、大阪市は本学の熱意を受けて、3条件の履行を条件に1974年度予算の復活折衝で新学生寮建設を認めた。3条件とは、新寮完成後に当時入っていた寮から立ち退くこと、寮費を支払うこと、寮生名簿を提出することであった。 これに対しては、都風寮、杉本寮の自治会から「大学当局のどす黒い野望=百名寮建換策動粉砕に向けて進撃せよ!」との批判ビラが配布されたように強く反発したものの、1974(昭和49)年10月建設のタイムリミットを前にしてとりあえず3条件について柔軟な態度をとった。この時点にいたって、ようやく大学の熱意は寮生側に伝わったかに思えた。しかし、1976(昭和51)年10月の新寮竣工時には以前のような頑なな態度となった。 学生部は1976(昭和51)年11月25日に学生部長名の文書「新学生寮について」を出して、3条件の履行を説き、寮側が「数回にわたり交渉にのぞんでいた学生部委員に対して常識では考えられないような威圧を加え、あくまで自己の説を通そうとする態度に出た。このため交渉は目下難航を極めている。しかし学生部委員会としては、なお解決への熱意をもっている…」と、自重を求めた。

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