大阪市立大学の歴史
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115 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 Ⅴ争によって生じた附属病院会計の赤字は約4億円と見込まれ、授業再開に最低限必要な応急の復旧整備費だけでも5000万円を超えると予想されたのである。予算建設委員会は、大学自体で10%分の予算を保留して復旧にあてるとともに、復旧整備委員会の設置を提案した。復旧整備委員会を通じて順次復旧整備が進められた。大学紛争後、寮問題が新たな火種に 前述したように、本学の過激派は大学紛争後も生き残り、その後も大学を混乱させることになる。というのは、過激派学生は1977(昭和52)年1月17日に完成したばかりの新寮という根城を確保して、そこから教養地区で行われた政治セクト間の暴力的抗争に出撃したり、教養地区の授業妨害、試験妨害に向かったからである。なお、暴力的抗争は教養地区と理工地区の間の公道まで及んだことがあった。その公道を近隣の小学生や幼稚園児が通学路、通園路として利用していたので、保護者からの要請もあって大学は登下校する子供達の安全を守るため、1971(昭和46)年度から、教員が午前、午後ともに10人ずつ教養地区正門前に立って路上警備をおこなう「路上当番」を行っていた。それでも、1975(昭和50)年6月4日には路上警備を行う前に、登校する学童の面前で、中核派学生が革マル派学生を襲撃し、死者が2名に及ぶという事件が起こった。大阪市立大学の学生寮の推移 前述したように、1960年代初めには、都風寮と杉本寮という2つの学生寮が存在した。その2つの寮はともに老朽化していたことから、1962(昭和37)年4月に全学協から新学生寮建設の要望が示された。また1963(昭和38)年9月には自治会によってアンケートが実施され(学生数3840、回収2755、回収率72%)、回収者の約半分が入寮を希望していることが判明した。もう一方で、当時はセクト間の激しい争いや全共闘運動の登場する以前でもあったことから、学生部側は「自治共同精神を養う寮生で(ママ)自治でよい。問題が出たときは学生部委員会でやれる。高い立場で審議する。寮生をこえ、学生としてでもできる」(『大阪市立大学学生寮の歴史』)という言葉に端的にあらわれているように、寮生の自治に対して絶大な信頼をもっていた。そこで、学生部は新寮の検討を進め、収

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