大阪市立大学の歴史
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114Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備た。この法律は、大学紛争が生じて9ヶ月以上経過しても紛争の収拾が困難な場合、当該大学または学部の教育・研究機能の停止の権限を文部大臣に与えること、さらに3ヶ月以上経過しても紛争が収拾困難な場合には、廃校措置を執ることのできる権限を文部大臣に与えるものだった。この規定を本学に当てはめると、2月14日教養部3号館の封鎖を起点にすれば11月13日がタイムリミットだった。「話し合い路線」は完全に行き詰まった。 9月17日、他大学の赤軍派の逮捕学生の自供に基づき、赤軍派の凶器準備集合罪の捜索のために機動隊が出動して医学部基礎学舎の捜索がおこなわれた。9月22日には封鎖下の医学部学舎から出動した赤軍派を名乗る学生が医学部附属病院付近の交番2箇所に放火、焼き討ちをする事件が起こり、23日基礎学舎は再び捜索をうけた。大学協議会は「医学部および病院のほとんど全面的な封鎖によって、診療機能は麻痺し、市民に過大な迷惑をかけるに至ったこと」、「『赤軍』の暴力行為による社会的不安と、それにたいする大学の社会的責任はもはや放置できない段階に達したこと」(9月30日付「大阪市立大学協議会声明」)から、ついに、9月30日府警機動隊300名の出動を要請して、医学部学舎、付属病院の封鎖を解除した。さらに、10月4日には、杉本町キャンパスの封鎖を解除するため府警機動隊600名の導入を要請した。 1969(昭和44)年1月の東大安田講堂の籠城や、また同年9月の京大時計塔の抗戦の中心がセクトであり、またセクトの中心的メンバーがその抗戦に参加していたのに対して、本学の場合には、セクトは籠城に加わらず、最後の籠城者はノンセクトだった。セクトは、封鎖を利用し、途中でその主導権を握り、「帝国主義大学解体」にいたる極左的スローガンを次々と乱発して封鎖を長びかせ、自己のセクトの運動の拠点として封鎖を利用し、最後の局面にはいるとセクトの勢力を温存するために、「ネズミが沈む船からいち早く逃げ出す」と言われるように、封鎖現場を捨てたのである。次項に述べるように、セクトグループの温存は引き続いて、大阪市立大学を悩ますことになる。 10月20日から商、経、法、文の4学部と教養部の授業を2号館、3号館で再開し、12月1日から医学部でも全面的に授業が再開されるに至った。大学紛争は、教職員、学生に対して深刻な心理的影響を残し、物的被害もことのほか大きかった。大学全体の被害総額は図書の被害を別にして約1億5000万円で、紛

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