大阪市立大学の歴史
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111 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 Ⅴ館封鎖のために学外で、しかも2日間に圧縮されて行われた。また、例年行われていた全学統一の卒業式は中止せざるをえなくなり、各学部ごとに分散して学部長から卒業生に対して学位記が手わたされた(この年、医学部については紛争のため卒業者はゼロとなった)。 以上のような事態に対して、大学側は3月協議会で設置を決めた「大学改革準備委員会」(その後大学改革委員会へ発展)、「大学問題特別委員会」の発足を記した「大学改革問題について」(4.7改革案)を4月7日に示して打開を図ろうとした。しかし、大学改革準備委員会を数回開催したが、医学部教員会(教授を除く医学部の教員で組織)との話し合いの結果、「学長の諮問機関」という位置づけを返上して自主的な委員会を志向し、職員、学生、教員三者の話し合い開催に努力するものとしたが、結局、医共闘の要求によって解散した。 5月には文学部学生への暴力事件、事態の改善を求める経済学部学生の自殺などの事件が次々に起こり、また同月には医学部教員会の日当直拒否闘争、医共闘による一部教授の軟禁が起こった。そして、6月11日医学部教員会は新規入院ストップ、入院ゼロ、外来ストップの方針を可決するまでに過激化した。これに対して、翌12日に医学部長、病院長連名で「地方公務員法の規定に違反する行為である」旨の警告文を発した。その結果、事実上の業務命令が出されたこと、運動自体の前途がみえなくなったこと、教員会執行部の会議運営が強引なものだったこと、によって教員会は分裂へと向かった。 もう一方で、6月に入ってからは封鎖学生の体制は崩壊しつつあった。当初、教養部3号館が封鎖されたとき、少なくとも180名を数えたといわれる封鎖派学生は、当時すでに30〜50名に減少しており、時には封鎖中の学舎に「籠城」している学生は最低数名の場合もあったといわれる。出るも自由、入るも自由という全共闘運動の組織原則そのものが、このような激減をもたらした1つの原因だった。かなりの数の学生が、封鎖学舎から故郷に直行して、そのまま戻らセクトの旗がひるがえる3号館

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