大阪市立大学の歴史
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110Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 いわば、医学部教授会の決定に対して学生自治機関等の拒否権を求めるものだった。そして、11月27日から翌日にかけて15時間を超える教授会団交の末に、「1969年4月1日より最高意志決定機関を発足させるよう各項を内規化するよう努力する。以上確認する」と医共闘は教授会に認めさせたのである。 しかし、医学部教授会では長時間にわたる「大衆団交」の末の確認である以上無効であるとの議論も展開され、同教授会の意向はこの確認書をめぐって二転、三転した。結局、医共闘からのプレッシャーの中でついに大学協議会に「基本綱領」を提出せざるを得なくなった。1969(昭和44)年2月12日臨時協議会において、医学部長はこの「基本綱領」を説明して協議会に意見を求めた。協議会は、抽象的で、無限定な「拒否権」、「教員と学生の対等」という内容は認めがたいとしつつも、各学部に持ち帰って討議することとされた。 同日午後8時より、学長・協議会代表と医共闘との大衆会見は、約400名の参加者が見守る中(学生、教員は半数ずつ)、現在の122教室でおこなわれた。徹夜で会見を続けた後、翌日13日午前9時半に休憩に入り、午後3時半から講堂で再開した。再開後は約1000名が参加した。結局合意にはいたらず、午後6時半学生代表は決裂の言葉を発して退場した。その直後、2月14日午前3時より教養地区3号館が封鎖された。 大学側は、その頃より、各学部3名、保健体育科から1名の全学25名の学生部委員が、午前9時頃から午後10時頃まで数名ずつで常時待機の態勢を組んだ。2月17日の臨時協議会では医学部問題特別委員会の設置を決め、19日に答申案を提出し、それに応じて2月20日に文書を公開した。そこでは、参加の仕方について、医学部最高意志決定機関において審議される事項については事前の合議を行うこと、その決定に対して所定の期間内に異議申し立てができることを提示した。しかし、大学執行部は2月12〜13日の大衆会見の経験にこりて、学生達との大衆会見は紛争が終わるまで行わなかった。このため、学部ごとの闘争が激しさを増し(なかでも、医学部、文学部の闘争は激しかった)、全共闘の学生の側では、学長との大衆会見を求める手段として封鎖を拡大していった。3月2日には医共闘が医学部基礎学舎を封鎖し、また3月24日は全共闘が大学本館を封鎖したのである。 そのため、1969(昭和44)年3月3〜5日に予定されていた入学試験は、3号

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