大阪市立大学の歴史
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109 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 Ⅴ大阪市立大学の大学紛争はどのように推移したか こうした学内動向の流れを受けて、本学の大学紛争の嵐は東京大学と同様に、医学部から吹き荒れた。 1968(昭和43)年10月、第1病理学教室の教授と助教授が、学生の面前で、講義担当をめぐって激しく議論をたたかわせた。その数日後、受講学生から、①第1病理学教室の講義、セミナーの正常化、②臨床カリキュラム、③講座制、教授会の運営方法、について公開質問状が提出された。その後10月末に、学生自治組織の学生委員会がこの問題を取り上げ、特に③を争点とする闘争を開始した。その際、医学部では学生だけではなく、青年医師連合(インターン生の全国組織)、大学院生も参加しての医学部民主化共闘会議(以下、医共闘と略す)が結成されて問題を大きくした。医共闘が結成される背景には、早い時期から大阪市会文教厚生委員会でも問題視されていたように、大阪市立大学附属病院での若手医師の勤務状態のあり方が関係していた。この点は大阪市立大学に限ったことではなく、全国の医学部で問題となっていた。 さて、医共闘側は、以下のような内容を含む「医学部民主化基本綱領」を作成して医学部教授会に承認するよう、強く迫った。A 医学部最高意志決定機関についてⅠ 医学部最高意志決定機関の構成は、教授、助教授、講師、助手の以上の全教官で構成し、全員は各自1票の平等な決定権等諸権利をもつ。この場合、医学部としての決定は全てこの医学部最高意志決定機関で行う。以上を基本原則とし、運営に関し、具体的に検討していく。Ⅱ 最高決定機関の決定に対し異議がある場合、医学部諸自治機関(学部委員会、青医連、大学院自治会)は、その決定の行使を、一時停止させることが出来る。Ⅲ 医学部最高決定機関に学部委員会、青医連、大学院自治会は発言権のあるオブザーバーとして参加する。Ⅳ 公開制:最高決定機関は全ての審議事項に関し、医学部構成員全員に公開する。

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