大阪市立大学の歴史
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108Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 しかし、ようやく結成された全学自治会では、特に中央執行委員選挙においてセクト系グループ間で激しい主導権争いが行われた。社会主義学生同盟(以下、社学同と略す)系、構造改革派に属する民主主義学生同盟(以下、民学同と略す)系が多数を占める有力グループで、そこに民青(日本民主青年同盟)系が加わって主導権争いを演じた。 この当時、全国的には60年安保時の旧全学連が分裂し、革共同全国委員会が有力グループとして現れたが、同派も分裂して、革マル派と中核派に分かれていた。中核派は社学同、社青同解放派とともに「三派全学連」を形成していたが、大阪市立大学の全学自治会は、執行部に構革派系の勢力が強まったため、「三派系」とも「革マル系」とも異なる独自の位置を占めた。一般学生の対応 1960年代半ばに、『大阪市大新聞』は本学学生の意識調査を行った(完全無作為抽出、回答用紙発送400人、回答者256通、回答率64%)。その質問項目の1つに、「デモに参加したことがありますか」(回答者数248)があった。その回答は、「一度もない」53.2%、「ときどき参加」42.7%、「よく参加」4.1%となっていた。現在からすれば、回答者の半分近くが「ときどき参加」「よく参加」と答えているのは驚きだが、安保闘争の後に行った新聞会前回の調査では、「参加したことがある」は94%だったのである。この点について、『大阪市大新聞』は「ここ3年間のデモでどうしても500名を超えることが出来ないのが分かるが、4年間で50%の減少はおどろくべきものがある」と記した。なお、「よく参加するもの」4.1%は全体数に直して110名にあたり、これは最小規模デモの数、すなわち活動家の数とほぼ一致するという。 本学では、1962年に誕生した全学自治会が激しいセクト間争いのために統一機能を喪失し、機能しなくなった。学生数が増加するなか、多くの一般学生は自治会における主導権争いをみたからか、学生運動から距離を置いた。他方、全体に比して多数ではないにしても、大学教育に対する不満をもつ学生のなかで一定数のものが、積極的に上述のセクト争いを乗り越えようとする出入り自由のノンセクト・ラジカルグループ=「全共闘運動」を形成した。1960年代後半の大阪市立大学では一部の活動家を中心とする学生運動が行われた。

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