大阪市立大学の歴史
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107 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備 Ⅴ また、1967(昭和42)年10月の羽田事件に関連して、大阪市会自民党議員団が本学のあり方を問題視した際にも教職員、学生は一致して対応した。羽田事件とは、羽田空港において、佐藤首相の南ベトナムを含む第2次東南アジア・太平洋諸国訪問の出発を阻止しようとする学生と機動隊の衝突事件のことである。当時の文相が、羽田事件を契機として、全国の国公私立大学の学長を招集し、懇談会を開催しようとしたところ、本学の渡瀬学長は出席しなかった。これに対して、11月末の大阪市会決算委員会において自民党議員はこの件を取り上げ、また大阪市会自民党議員団総会で「市立大学の偏向教育調査特別委員会」の設置を決めた。「アカの教育をする大学に大阪市が助成することは筋が通らぬ。徹底的に調査したうえ、左翼偏向が改められないときは同党議員団が結束して来年度の同大学関係予算をいっさい認めない」ことを申し合わせたのである。しかしこの件が新聞紙上で報道されるや、学問の自由、大学の自治を侵害するものとして世論の批判が噴出した。本学でも、教職員、学生から反対の声が巻き起こった。そのため、自民党市議団は、直後の幹事会において、研究特別委員会は発足させるが(文教研究委員会として発足)、学問の自由、大学の自治を侵害するような思想調査は行わないこととした。 大阪市立大学の教職員、学生は不当な干渉には一致して行動した。全学統一自治会はなぜ結成されたのか、結成後どのように推移したのか 1960(昭和35)年の日米安保条約改定時の安保闘争から前述した運動に至る流れのなかで、1962(昭和37)年6月大阪市立大学では全学自治会が結成された。大阪市立大学には、全学的な学生組織として全学学生協議会(以下、全学協と略す)が存在していた。しかし、全学協はもともと大学祭などの全学的行事を行うために、各学部自治会代表の連絡協議会として発足したものだった。そのため、全学協は執行権をもたず、その決議は全会一致を条件としていた。そこで、全学協はそのもとに合同執行委員会あるいは全学闘争委員会を設置して執行権を行使した。とはいえ、1960(昭和35)年の安保闘争の過程で、学生側は全学協と各学部自治会が同時に執行権を有するという組織的二重性を解消して、一元的な執行権を有する全学統一自治会の必要を感じた。こうして大阪市立大学に全学自治会が結成された。

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