大阪市立大学の歴史
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106Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備「全共闘」運動が世間の耳目を集めたが、本学にも例外なくその嵐が吹き荒れた。「帝国主義体制を維持・強化するイデオロギー的・物質的拠点として大学を編成しようとする」「帝国主義大学政策」に反対するとして運動を展開したのである。 全共闘運動は、入るも自由、出るも自由の、ゆるやかな運動体として登場した。そうした運動体をリードしようとするものはたえず、より「左翼的」な方針を打ち出し、過激な方向へ扇動した。 また、バリケードの向こう側の権力側の打倒だけではなく、自分たち学生も卒業後には「帝国主義体制」を担う存在であるという観点から、自分たち自身の「自己否定」、次いで「自己解体」へと突き進んだ。大学紛争前の大阪市立大学 本学の学生運動の動向はどのように推移したのだろうか。1960年代前半からみていこう。 1962(昭和37)年には大学管理法案反対運動が盛り上がった。1962(昭和37)年6月、新聞に報道された大学管理法案に関する中央教育審議会答申原案によると、①大学の管理運営の執行責任者を学長とし、学部の責任者を学部長とする、評議会は全学の、教授会が学部の重要事項審議機関とする、教授会の構成は原則として教授のみとする、②教員選考の責任者としての学長と、任命責任者としての文相の権限を明確にする、大学側の選んだ学長・学部長・教員の候補者を文相が不適当と認めた場合は、新しく設置される中央機関に諮って再選考を求める、などを骨子とするものだった。この案に対して、9月、国立大学協会総会は反対の意向を明らかにした原案を採択した。即ち、大学の管理運営は、大学自らの責任と自覚にもとづく自主的措置によって図られるのが大学自治の本旨であり、画一的な法制化だとして反対した。 当時、本学は公立大学協会の会長校であり、国大協案に原則的に賛成の立場をとった。各学部、経済研究所の教授会も反対声明を発表し、個人レベルでも教職員有志が集会等で反対の意思表明を行った。学生側は全学自治会においてストの賛否を問う全学投票を実施し、スト決行の決定を行った(3分の1以上の1233名の投票で、過半数以上の1036名賛成)。全国各地では1万人以上のストが行われていた。結局、大学管理法案は国会に上程されなかった。

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