大阪市立大学の歴史
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104Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備1974(昭和49)年3月に、病院リニアック棟は1977(昭和52)年8月に竣工した。なお、以上のように病院施設は充実したものの、看護婦不足の結果、ベッド数の稼働率は8割程度で、入院待ち患者は多数に上った。そのため、市会でも入院待ちの解消が求められた。プールやテニスコート、厩舎等の資金は誰が供給したのか これまでにも述べてきたように、学舎整備事業は資金的にはきわめてきびしかった。そこで、同窓生の協力の下、1965(昭和40)年1月に大阪市立大学後援会を設立して、同後援会を通じて募金活動を行い、学舎整備に活用しようとする構想が浮上した。同後援会は、その目的を「大阪市立大学の発展をはかるために必要な教育研究施設の拡充および学術活動に必要な物的、財的援助を行い、わが国文化の向上に寄与すること」とされ、「①教育研究施設および厚生施設の充実のための物的、財政的援助、②教育研究の奨励助成、③教員の海外派遣、外国人講師の招へいのための援助、④学生に対する学資の支給または貸与、⑤教職員および学生に対する福利厚生事業」などを行うものとされた。そして、まずは緊急整備計画への協力のために、学術研究基金、奨学金等基金、施設建設資金など合計7億8000万円を目標とする募金活動を開始した。なお、理事長には松下電器松下幸之助相談役が就任した。募金活動の結果、7033件7億2千万円あまりが寄付された。そこで、研究施設整備に1億300万円を(その内訳は電子計算機購入資金3750万円、病院用備品4000万円、質量分析計1000万円等)、経済研究所書庫建設のために2500万円を、そのほか体育館兼講堂に1億8100万円、屋外運動施設整備に5230万円、プールに3500万円、グランドハウスに1000万円、屋外照明灯に297万円の支出等がなされた。また、学術研究基金として3億円を、奨学補導厚生基金として5000万円が積み立てられた。 後援会以外にも、大阪市立大学に関係のある人々やその他の組織から寄付がなされた。大阪市立大学後援会理事田中吉太郎より、1967(昭和42)年5月大阪市南区の繁華街沿いの自己所有地が寄付され、その土地売却資金で田中記念館が建設され、1974(昭和49)年11月に竣工した。また、百周年記念事業の一環で、都市問題資料センターの建設が計画された。しかし資金的な面で難しくなった1978(昭和53)年9月、当時の松下電工丹羽正治会長をはじめとする松下グルー

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