大阪市立大学の歴史
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102Ⅴ 諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備Ⅴ ‌諸困難のなかで進められた総合大学としての本格的な整備(1960年代〜1980年代半ば)―財政窮迫下での学舎整備、大学紛争、学生寮問題―1.大阪市の財政窮迫の中での校舎整備杉本校舎返還後の校舎整備 本学の建物がいつごろ、どれくらい建設されたかについては、表Ⅴ-1から明らかとなる。まず、杉本町地区では1966-75(昭和41-50)年の時期にピークを示している。阿倍野地区においては、大阪市の病院であることから、直接、市民サービスに関わるため、常に設備建設が続けられた。なお、組織的には、1957(昭和32)年4月設置の杉本町学舎建設企画委員会は、1964(昭和39)年7月に医学部選出委員も加えて学舎建設企画委員会に拡大し、1968(昭和43)年に学舎建設企画委員会と予算委員会を統合して予算建設委員会に衣替えされた。この委員会の下で、逐次、必要な設備の建設が検討され、実現された。 主要な建物の建設は、以下のように進んだ。まず、それまで杉本町に存在しなかった理系学舎の建設である。理学部本館は1961(昭和36)年3月に1期、1962(昭和37)年7月に2期が竣工し、工学部はB棟(1964(昭和39)年1月)、A棟(1964(昭和39)年6月)などが順に完成した。生活科学部本館は1968(昭和43)年9月に竣工した。理系学舎の建設が一段落した後、次に文科系建物が建設された。旧経済研究所書庫が1971(昭和46)年4月、旧経済研究所棟が1972(昭和表Ⅴ-1:大阪市立大学の建物の時期別延面積建設時期杉本町地区阿倍野地区16656―20196245943364730234191414710325303973411996-2005年総 計172929245994延面積(a)合 計1945年以前166561956-65年447901966-75年638821976-85年662451986-95年1226445798546721104707418923出所)大阪市立大学事務局企画整備課資料より作成

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