大阪市立大学の歴史
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101総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ市立医科大学助教授西脇安らによって放射線が測定された。また大阪市からの委嘱で阪大の専門家とともに本学の研究者も加わって放射能対策協議会が設置された。こうした営みは、その後の原水爆禁止運動を盛り上げることにつながったのである。 また、難波宮址保存への寄与である。1952(昭和27)年4月山根徳太郎元本学法文学部教授らが、文部省研究助成金で大阪城址研究会を発足させ、1954(昭和29)年2月からの東区法円坂町での難波宮址発掘調査に従事していた。そして1962(昭和37)年第16次調査中に近畿財務局第2合同庁舎建設を大極殿跡に建設する計画が立てられた。山根は保存のために奔走し、1962(昭和37)年9月28日の市会で「難波宮址保存に関する意見書」の提出、可決にまでこぎつけ、本学のほか、大阪大学、大阪府立大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、京都大学の7大学学長と日本学士院会員恒藤恭による保存を訴える声明につなげた。また、奈良平城京跡における車庫建設反対の「平城京を守る会」とともに「関西文化財保存研究協議会」を結成して、本学助教授直木孝次郎を中心に「難波宮址を守る会」を発足させた。同会が中心となった署名運動の一方で、大阪市は代替地を検討し、文部省文化財保護委員会事務局から大蔵省へ位置変更を申し入れたことで、1963(昭和38)年3月大阪市斡旋の代替地に合同庁舎建設が決定し、難波宮址史跡指定が決定したのである。本学関係者は難波宮址保存に重要な役割を果たした。 杉本地区の返還を勝ち取った大阪市立大学は、その教育・研究のレベルの高さによって各専門分野で有力な地歩を築くこととなった。とはいえ、大阪市による財政的支援は、その意図に反して現実には不十分なものだった。このため、国立大学並みの水準の達成は悲願ともなっていく。他方で、大学のマス化の洗礼を受け、本章で記述した時期とは異なった多難な時期を経験することになった。

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