大阪市立大学の歴史
113/220

99総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ農園にあった千里山寮(1954〔昭和29〕年4月大阪市立西華高等女学校所有の千里山農園の建物を寮に転用)、杉本町にあった杉本寮(1956〔昭和31〕年6月旧米軍兵舎を改装して寮として利用し始めた)である。結局、千里山寮は廃寮となり、その寮生は杉本寮に移動した。都風寮と杉本寮の2つになった。 この後、学生寮の存在はことのほか大阪市立大学に多くのトラブルをひきおこすことになるが、その遠因はすでにこの時期に作られていた。学生部と寮生との間で合意された寮規則には、現在ではおよそ考えられない内容が含まれていたのである。その第8条には「寮の運営その他必要な事項は寮自治規則によって定める。寮自治規則の制定及変更は補導厚生課と寮生大会の協議の上これを行なう」、第9条には「本則の変更も補導厚生課と寮生大会と協議の上行なう」とされていた。「協議」という形で事実上管理運営に関する拒否権を寮生側に認めていたのである。大学ではこの「寮則」を学生部と寮生の間の取り決めとして扱い、協議会で承認する手続きをとらなかった。というのは、学生課が1956(昭和31)年4月より、8ヵ条からなる規程案を作成し、寮生側と交渉したものの、交渉は難航し、杉本寮開設が目前に迫った7月になって、どうしても「寮費徴収に関し、また杉本寮新設のため寮規則を制定する必要に迫られ」、寮生と学生部だけの取り決めとして上記「寮則」を制定したからだという。 学生寮をめぐって、大阪市、大学、寮生は見解を異にした。大阪市は、学生寮という大学施設も大阪市の施設であり、その適正な管理は市の責任であるから市職員が直接管理しなければならず、大学自治を認めたとしても、学生寮の管理を寮生に全面委任するようなことまで大学に認めてはいない、と考えた。上記の「寮則」を認めてしまった大学は、学生寮という大学施設の管理の一部またはほとんど全部を寮生の自治に委ね、また「協議」という形で事実上学生に管理に関する拒否権を認めたとしても、そのような決定を行うことは大学自治の範囲内で可能であると考えた。寮生側は、大学当局を寮の管理運営から排除することを目的として、「いかなる干渉をも受けることのない自由且完全な自治寮」と考えていた。そして、大学教員の中には以上の寮生側の考え方を容認するものもあった。こうして学生寮に関する管理運営については、大阪市、大学、寮の3者に共通した認識は存在せず、正式な寮規則は決められないままに推移していくことになった。

元のページ  ../index.html#113

このブックを見る