大阪市立大学の歴史
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97総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ他の重要な部署について 第2次世界大戦前から、『経済学辞典』(岩波書店)や『経済学文献大鑑』等の発行を行って学界に有力な地歩を築いていた大阪市経済研究所は1949(昭和24)年9月に本学に移管され、附置研究所となり、研究面では、引き続き重要な役割を果たした。なお、経済研究所は、第2次世界大戦後、4回の移転を経験した。商科大学のあった杉本町から、杉本町駅の西南にあった大阪友の家へ、次に南区難波新地元精華小学校の3階へ、南区南綿屋町へ、そして西区阿波座中通の明治校舎へと移転した。杉本校舎に戻ったのは、文科系研究室棟が完成した1961(昭和36)年3月だった。 図書館については、1949(昭和24)年12月商科大学図書館、都島工専図書室、市立女専図書室が統合されて大阪市立大学図書館となった。商大図書館を母体に中央図書館とし、理工学部分室、家政学部分室として構成され、分散制ではなく集中制を採用した。なお、前述のように、杉本校舎は10年間にわたって米軍に接収されたため、もちろん図書は移転を余儀なくされた。1945(昭和20)年10月7日に米軍より、1週間以内の立ち退きを要求され、商科大学図書館が所蔵していた約30万冊の蔵書はトラックによって急きょ大宝小学校に輸送された。その際、アルバイト学生と米軍兵によって、箱にも入れられず裸のままトラックに山積みされ、そのうえ軍靴で踏みつけられたり、輸送途中にトラックの囲いから図書が落ちたり、米軍兵に路上へ投げ棄てられたりして図書の散逸、破損は相当数に上った。目録カードも手当たり次第にトラックに積み込まれたため多数のカードの散逸をきたし、図書原簿は3分の1近くを失った。大宝小学校では図書は天井近くまで山積みされ、図書の配列はばらばらだった。このために数年間の図書館業務の大半は、旧図書の整理に明け暮れた。明治校舎に移転してからは、ようやく商大図書全蔵書の書架配架が可能となった。 1969(昭和44)年に原子力基礎研究所となる原子力調査室は1957(昭和32)年に事務局内に設けられた。また、保健体育科目の担当教員は大阪市立大学開学当初は、主として法文学部に、一部は家政学部に所属しており、法文学部が法学部、文学部に分かれる際、その所属先は明確なものとはならなかった(その後1965(昭和40)年に教養部所属となった)。

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