大阪市立大学の歴史
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95総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳついては、その教員スタッフは商科大学の商学系、高商部、経済研究所や学外の研究者で構成された。商学部は学問研究の自由を尊び、「市民の大学」の原則に従った学部運営を志向した。つまり、近代市民社会の生活原理となった庶民的性格の自由・平等の原則、そこから発揮される独自の創造力に学部としての発展を込めたのである。なお、経済学部、他大学の経営学部との違いについて、本学の商学部では「個別企業をそうした個別の枠に閉じ込めて扱うのではなく、その存立の基盤をなすところの経済全体の法則性との関連において、統一的に理論化しようとすること」が目指されたという。いわば、応用理論としての実学と理論との統一を、個別と全体の関連における体系化によって実現しようとした。 これに対して、経済学部は、その教員スタッフが商科大学の経済系教員(約半数に当たる)が移行したこともあって、戦時中から営々と積み上げられてきた蓄積を、新しい環境のもとで、一挙に開花させたものといえる。何名かの教員の学術的業績が全国的な注目を集めたり、大阪商科大学の流れを汲むものとして、『経済学雑誌』は学界から高い評価を得たのである。 なお、以上のように各学部の構成が確立する一方で、1955(昭和30)年の大阪市の定数条例制定を受けて、教員職階別定員制の議論が進められた。その結果、1963(昭和38)年2月に文科系で学科目制、理科系で講座制が採用されることとなり、文科系については学科目数の約半分を教授とする原則が決められた。総枠874名の内訳として、学長1、商・経・法46(教授21+助教授20+助手5)、文110(教授50+助教授44+講師8+助手8)、理159(教授39+助教授40+講師19+助手61)、工126(教授30+助教授31+講師15+助手50)、医223(教授29+助教授31+講師35+助手128)、家政67(教授18+助教授21+講師13+助手15)、経済研究所20(教授10+助教授10)、原子力調査室20(教授3+助教授7+講師4+助手6)、保健体育科10(教授1+助教授5+講師3+助手1)とされた。しかし、1年半後の1964(昭和39)年10月、大阪市より、財政的な理由から、その時点での在籍者を定数とする「凍結定数」が決められた。教育体制の特徴 第1に、教養教育体制についてである。前述したように、本学の教養教育は、

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