大阪市立大学の歴史
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94Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生学部、経済学部、法文学部として出発したが、一時期商経学部、法学部、文学部の3学部案が有力と考えられたこともあった。法学部としての独立案は大阪商科大学における法学系スタッフの水準の高さと恒藤恭、末川博等の優秀な研究者の存在を考えてのことであり、文学部としての独立には大阪のような商工業の発展した大都市には文学部の存在は不可欠との恒藤学長の強い信念が影響していたからだった。しかし、独立の法学部、文学部となるには教員数が不十分であったこと、商科大学の学部学生、高等商業部の学生から、商学部を独立させよ、との強い要求と度重なる大衆会見の開催等もあって、商学部、経済学部、法文学部としてまとまった。それでも法文学部はいずれ法学部、文学部として発足することは約束されていた。そこで、法学科、文学科それぞれで拡充人事を行い、陣容が整った1953(昭和28)年4月より法学部、文学部として発足した。 第3に、家政学部についてである。1948(昭和23)年7月末の文部省への設置申請書において、本学は当初、附設女子大学生活学部の設立を記載していた。そこには被服学科、食物学科、社会福祉学科、その他医学部との連携による看護学科増設を意図していた。しかし、GHQとの折衝の際、当時GHQの教育文化局の顧問であったホーム・エコノミスト(家政学者)のWilliamson博士やHolmes博士らから、アメリカのホーム・エコノミックス教育をモデルとしたあり方が示唆され、要請されるとともに、附設女子大学ではなく1学部としなければ原案は却下するという指導がおこなわれた。その結果、1学部としての家政学部を申請することとなった。家政学系学部としては、日本女子大学、大阪女子大学、高知女子大学と共に日本で最初の設置であった。なお、本学発足後も、家政学部は同学部への女子の進学がはかばかしくない現状から短大併設によって学生の確保を検討した。これに対して、大阪市側は家政学部を廃止して短大を設置したいとの意向を示したため、家政学部は短大併設案をあきらめ、家政学部一本でいくこととした。 その後、被服学と住居学の違い、児童学と社会福祉学との違いを意識するようになり、専門課程は食物栄養学、被服学、住居学、児童学、社会福祉学の5コースに分けられた。 第4に、商科大学の流れを汲む商学部、経済学部についてである。商学部に

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