大阪市立大学の歴史
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93総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ設費の3分の2を理科系の整備にあてること、研究費の確保と学部会計の独立、教授の地位と教授会の権限の確立、1講座6名の教員定数(教授1、助教授1、講師1、助手3)、国内外への研究者の派遣、教員住宅や育英資金の確保などを申し入れた。すべてが実現したわけではなかったが、大阪市は前向きに対応しようとした。 小竹は理工学部を設置するにあたって、「基礎に重点をおいた工学部」もしくは「理科的工学部」というアイディアを軸とした。具体的には、学部に学科をおかず、数学・物理学・化学・応用化学・生物学・地学・機械工学・電気工学・建築工学・土木工学などの「グループ」の集まりという形を志向したのである。学生については、グループの別なく入学し、教養課程が終わったのち講座に相当する各専門コースに進んだ。カリキュラムは完全な自由選択制で、境界領域を志望する学生はコースの別なく自由に受講科目を選ぶことができた。卒業のさいは、本人の希望によって理学士・工学士のどちらの称号を受けてもよいことにした。以上のあり方は、都島工専時代の工業大学構想とはまったく異なるものだった。このような独自の運営アイディアは当時日本の優秀な若手の研究者をひきつけ、理工学部の構成員には前歴の多彩な、研究能力の高い人々が集められた(例えば、理論物理学講座では教授、助教授、助手すべてが20代であった)。 しかし、「基礎に重点をおいた工学部」という理念は当時の日本では通用しなかった。というのは、工科系において、建築士のように法規で定められた資格取得のため国家試験受験が必要なものがある一方で、履修すべき学科目の種類や単位数は制限されていたから、積み上げ式のカリキュラムが求められていた。自由カリキュラム制度を導入する余地はなかったのである。その点で、文部省は工学士を養成する応用学科と理学士を出す基礎学科との厳格な区別を要求していた。高度経済成長を迎えようとする日本社会はそうした工学士を求めていたのである。 しかも、理工学部としての学部運営は必ずしも理・工間でバランスが取れていたわけではなかった。結局、1959(昭和34)年4月より理学部、工学部として改めて出発することとなった。 第2に、法文学部についてである。前述のように、文科系学部としては、商

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