大阪市立大学の歴史
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92Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生わゆる人口のドーナツ化現象によって人口増加が鈍化したため、市税収入の中心である市民税や固定資産税は伸び悩んだのである。 以上のような大阪市がかかえる多様で膨大な行政需要と大阪市財政力の弱さから、当時、大阪市会において、大阪市による大学の所有の是非までが議論された。このとき、一貫して大阪市は大阪市立大学をもつことの意義、重要性を強調し、大学をもつことは誇りだ、と答えた(当時の橋本助役)。 市立大学についての整備が財政的理由もあって、非常に立ち遅れているという不十分な状態であれば、いっそこれを国立に移管してしまったらどうか、国有移管の問題を考えたことがあるかどうかというご意見でございますが、結論から申し上げまして国営移管を考えたことはございません。…その大学の卒業生なりあるいはまた学者というものは、私は国立大学の卒業生なりあるいはまた国立大学の教授なりの学問的な能力、あるいは卒業後における活動というものは少しも遜色がないものであるということを確信をいたしておるのでございます。私どもができるだけ力を注いで大学施設の整備をして行きたいということは、現状においてもはるかに遜色のない学者であり卒業生であるということは誇りでありますけれども、さらにいっそうりっぱな学生であってもらいたい。さらにいっそうりっぱな卒業生であってもらいたい。さらにいっそうりっぱな学者としての研究を続けてもらいたい。こういうふうな意味合いにおきまして今後できるだけの整備をはかりたい、かように考えておる次第でございます。4.大阪市立大学出発時の教育・研究体制の整備各学部の状況 第1に、野心的な試みを持って出発した理工学部についてである。理工学部へとつながる流れは、前述のように、大阪市立都島工業専門学校から始まることからそのような都島工専の流れを基礎に持つ。その基礎に加えて、大阪市が三顧の礼でもって迎えた東北大学出身で、当時大阪大学理学部教授だった小竹無二雄のリーダーシップが重要な要素だった。初代理工学部長となる小竹は大阪市の誘いに対して、大学院設置をめざす高級な研究施設とすること、大学創

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