大阪市立大学の歴史
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91総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳの項目以上に大きいものの、それ以外にも重要な施策が存在していた。 しかも、その大阪市の教育行政は市立大学ばかりに資金供給するわけにはいかなかった。義務教育となった小中学校では、二部授業や「すし詰め学級」といった不正常授業が続いていた。学校教育法施行規則では小学校の一学級児童数を50人以下としたが、この標準を超えて編成された学級を「すし詰め学級」といった。1957(昭和32)年7月に行われた大阪市教職員組合の調査(調査学級6433)によると、市立小学校の67%以上が「すし詰め学級」と報告されていたのである。 他方で、シャウプ税制によって大阪市の財政力は弱体化していた。というのは、租税構造が大都市の活発な経済活動を反映しない仕組みになっていたからである。すなわち、第1に、市町村の税には、所得・収益関係、消費・流通関係の税収の伸びの大きな税が少なく、比較的伸びの小さい財産保有関係の税が大半を占めていた。第2に、大阪市のような大都市では、企業の活動とそれに伴う昼間人口の流入が財政支出を増大させているにもかかわらず、伸張性に富む法人所得課税の市への配分が少なかった。第3に、都市での経済活動を反映する消費・流通に対する課税の配分が少なかった。第4に、大阪市の場合、い35000公債費警察費社会及び労働施設費清掃費衛生費教育費住宅費土木費役所費3000025000200001500010000500001949年1950年1951年1952年1953年1954年1955年1956年1957年1958年1959年1960年図Ⅳ-1:主な大阪市歳出決算の推移出所)『新修大阪市史』第8巻、172-173、198-199頁より作成。

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