大阪市立大学の歴史
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90Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生 そこで本学では、商・経・法・文・理工・家政・経済研究所、事務職員より選出された実行委員の会合で、「杉本町校舎全面返還促進実行委員会」を結成して、それまでの返還運動を一層全学的に盛り上げようとした。1954(昭和29)年7月杉本町校舎講堂において全学教職員大会がなされるとともに、その直前には中之島中央公会堂において学生による杉本町校舎全面返還全学決起大会が開かれていた。全面返還促進教職員実行委員会は在日米軍、米大使館、日本政府関係各機関、国会、大阪市当局、大阪市会、同窓会、新聞・通信・放送関係機関等各方面への積極的な働きかけを行った。こうした動きを受けて、同年8月参議院文部委員会において「大阪市立大学校舎接収解除に関する決議」を全会一致で採択し、同委員会は福島特別調達庁長官への説明を求めることとなった。また同年8月28日大阪市会本会議にて、「大阪市立大学学舎返還促進に関する意見書」、同「請願書」を全会一致で採択し、委員が上京して関係各方面に提出するという行動をとった。この後も陳情を継続して、ようやく1955(昭和30)年7月5日全面返還が確定し、9月10日返還式が行われた。全学挙げて各方面に働きかけた結果だった。 杉本校舎が全面的に返還された後、大阪市は隣接用地を買収して、名実ともに一つの総合大学として発展することを目指した。ところが、当時の大阪市財政は逼迫し、また土地購入費は巨額に上ったため、一気に全学部を杉本町に集結させることはできなかった。財政的なきびしい状況は教員研究費についても及んでおり、大阪市会でも問題視された。国立大学基準の7−8割程度しか満たしていなかった。設置当初、大きな期待を寄せられた大阪市立大学は資金的に厳しい状況下にあった。 大阪市立大学は、なぜ財政的に苦しかったのか 本学の各学部は大きな期待を担って出発したものの、前述のように資金的な手当てが思ったほどなされなかったのは、設置者大阪市が当時抱えていた諸条件と深く関わっていた。 大阪市は、戦災からの復興、自治体警察の発足、新教育制度の実施、福祉行政の開始等種々の課題に直面していた。それに加えて、ジェーン台風の被害からの復興等も担っていた。この点は図Ⅳ-1でも確認できる。教育費の割合は他

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