大阪市立大学の歴史
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89総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ学部は北野校舎(北区南扇町の元北野小学校)に、家政学部は西長堀校舎(西区西長堀通の大阪市立女子専門学校)に分散していた。いわば、「タコ足」大学だったのである。「タコ足」大学となっていたのは、前述のように、終戦直後の1945(昭和20)年10月7日より、米軍による学舎接収が10年間にも及んだからだった。そこで全学をあげて、杉本校舎返還運動が展開された。 1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争勃発のため、杉本校舎は軍事病院へ転用されて、傷病兵の収容、米兵の遺体の中継地となったことから、ますます返還は難しくなった。それでも1952(昭和27)年3月までに8回にわたって陳情書を提出しつづけて返還を訴えた。ようやく1952(昭和27)年8月11日に、一部の区域が返還された。この結果、商・経・法・文の各学部専門課程、同大学院、同研究室の一部、商経学部事務室、附属図書館が杉本校舎(住吉区杉本町)に移り、1953(昭和28)年4月に大阪市に道仁校舎が返還された。しかし、返還部分以上の面積が未返還だった。 1953(昭和28)年7月に朝鮮戦争休戦協定が締結されたことから全面返還に期待が集まった。しかし返還要求に対しては米軍より拒否の回答がなされた。そのため、返還運動を展開した結果、同年10月大阪市会は議員を東京に派遣して外務省、文部省、首相官邸に陳情書を手渡した。それに対して、1954(昭和29)年7月には何の公式の連絡もなく、米海兵隊が新たに杉本町に移駐した。キャンプサカイを新たに位置づけようとしたのである。一部地域返還時の状況:現在の法学部棟前、保健管理センターから米軍接収中の1号館をみたところ。学生はフェンス越しに接収中の1号館を眺めながらキャンパスを移動していた。左側の平屋はチャペル、現在そこには高原記念館が建っている。

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