大阪市立大学の歴史
100/220

86Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生のカラーをうち出していくべきではないか、という理由から断った。1947(昭和22)年夏ごろには、実質的には単科大学のままで新制大学に移行するものとして、学内では商・文2学部からなる構想が有力となっていた。その後、1948(昭和23)年2月の大阪商科大学教授会では「国際的産業人の育成」をめざす総合大学案が議論され、商・経・法文の3学部案としてまとまった。 前述のように、都島工専では大学昇格運動は市立工業大学の創設運動となり、1948(昭和23)年5月の大阪市会において「大阪市立工業大学創設に関する意見書」が提案され、可決されていた。1948(昭和23)年2月に開設された大阪市立女子専門学校では新制大学への昇格運動が開始されていた。1948(昭和23)年4月に開設された旧制大阪市立医科大学においても新制大学化を目指して大阪市と折衝していた。 こうした動きをみた近藤博夫市長は、前述の商科大学、医科大学、都島工専、女専の各校が抱く新制大学化の要望を、一つの新制総合大学の創設へとまとめる決心をした。1948(昭和23)年7月に大阪に関係する人々を集めて「大阪市立新制大学設置準備委員会」を設置し、商・経・法文・医・理工・附設女子大学からなる総合大学の設置を決定したのである。その委員会に集められた人々とは、大阪市助役、教育長等大阪市当局、市会議長、文教委員長等大阪市会関係者のほかに、大阪府副知事、大阪商工会議所会頭、大阪大学総長、関西大学学長、大阪商科大学学長、大阪市立医科大学学長という在阪大学関係者、朝日新聞、毎日新聞、大阪時事新聞の言論界代表、大阪市立都島工業専門学校長、大阪市立女子専門学校長、大阪工業専門学校長等専門学校関係者、その他大阪商科大学教職員組合代表、大阪市立工業技術研究所長等を集めた総勢38名だった。いわば、当時の大阪市としては大変なビッグプロジェクトとしての位置づけだった。開設にあたっての大阪市と大阪市立大学の思い 以上のような大阪市立大学を設置するに当たって中心的な役割を果たした大阪市長近藤博夫はどのように考えていたのだろうか。また、それに対して大阪市立大学学長恒藤恭はその運営に当たってどのような理想を抱いていたのだろうか。

元のページ  ../index.html#100

このブックを見る